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最高裁判所第一小法廷 昭和53年(あ)1386号 決定

主たる事務所所在地

大阪市阿倍野区阿倍野筋一丁目六番一六号

医療法人

博仁会

右代表者

小野博人

本籍

大阪市阿倍野区阿倍野筋一丁目四七番地

住居

同 住吉区万代東一丁目二七番二四号

歯科医師

小野博人

昭和一九年一月三一日生

右の者らに対する法人税法違反各被告事件について、昭和五三年六月二〇日大阪高等裁判所が言い渡した判決に対し、各被告人から上告の申立があったので、当裁判所は、次のとおり決定する。

主文

本件各上告を棄却する。

理由

弁護人上坂明の上告趣意のうち、判例違反をいう点は、原判決は所論のいうような判断を示しているとは認められないから、前提を欠き、その余は、事実誤認、量刑不当の主張であり、すべて刑訴法四〇五条の上告理由にあたらない。

よって、同法四一四条、三八六条一項三号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 戸田弘 裁判官 団藤重光 裁判官 藤崎萬里 裁判官 本山亨 裁判官 中村治朗)

昭和五三年(あ)第一三八六号

被告人 医療法人 博仁会

同 小野博人

○弁護人上坂明の上告趣意(昭和五三年九月一四日付)

第一、被告人小野博人について

一、原判決には、判決に影響を及ぼすべき重大な事実の誤認があり、原判決を破棄しなければ著しく正義に反する場合に該る(刑事訴訟法第四一一条第三号)。

(一) 原判決(控訴審判決)は、「(第一審)判決が弁護人の主張に対する判断の一で認定した諸点のほか、被告人小野博人は各年度の法人税の確定申告に当り、事務長梶岡秀年から試算表等により報告を受けた後、税理士事務所に確定申告書の作成を依頼し、出来上竟た申告書について右事務所の担当者石川郁夫の説明を受け、しかる後にこれに代表者として署名捺印したことが窮われ、これらの事実によると、被告人小野博人は、収入除外ないし法人税ほ脱税額の細部或は具体的金額についてまでは認識していなかったとしても、少くとも右の点の概括的な認識は有していたと認めるのが相当であり、更に被告人の組織及び営業の実態、被告人小野博人の同法人の代表者としての立場、ならびに小野アイとの身分上及び生活上の関係等の諸点を併せ考えると、たとえ同法人における金銭の出納、管理は事実上主として小野アイがこれに当っていたとしても、被告人小野博人は右小野アイと共謀の上、本件各犯行に及んだものと判断するのが相当である」と判示するが基本的に誤っている。

(二) 被告人小野博人は、第一審判決の判示第一ないし第三の各法人税ほ脱の認識もなく、又これを母アイと共謀したこともないのであるから、これらを肯定し、同被告人を右各事実について有罪とした原判決は事実を誤認したものであるとの趣旨を控訴理由の一つとした。

(三) また、この事実認定に関する重要な事実として控訴人は原審(控訴審)において、梶岡秀年が勤務していた場所を重視する必要があるのに一審ではこれが全く看過されていたことを指摘し、これに関する証拠を提出した。

即ち、梶岡秀年が事務長という名で勤務していた場所は昭和四九年一二月までは、住吉区万代西二丁目所在の小野アイ方の離れであったが、それ以降は、被告人医療法人博仁会の本院(大阪市阿倍野区所在)に移ったことは、第一審の記録には現われていないが重要な事実であることを強調した。

(四) そして、第一審記録においては、梶岡が、昭和四七年八月事務長を就任以来、本件事件に至るまで事務をとっていた場所は、前記の本院であったものとして、事実が組立てられていることを具体的事実を挙げた。

即ち、第一審において、刑事訴訟法第三二一条一項二号により証拠として採用された唯一の梶岡秀年の検察官調書(昭和五一年五月七日付)の、「私が博仁会に入った時から、現在迄、両分院(松原、天下茶屋)の経理事務は、すべて本院の経理事務と共に行っていました」(第二項)、「私が院長の指示によって、裏に廻していたお金は、松原、天下茶屋両分院分の現金収入のうち、自費診療収入金についてでありました……私は事務長として入った一ケ月程後の夜だった……私が何かの用事で万代西二丁目の院長の本宅に行った際、応接室で院長から収入金の一〇パーセントから一五パーセントを抜いて経理するように云われました」、「毎朝九時過に院長から、松原、天下茶屋両分院の前日分の診療報酬として現金と入金伝票を手渡されるので、私は、その中から、適宜一部を裏に廻していたのです」、「裏に廻した分の現金については、その分に相当する伝票を院長のお母さんである小野アイさんに、同人が留守の時は、院長に見せて、裏に廻した金額を説明して伝票によって確認してもらい、裏に廻した現金を小野アイさんが院長に手渡し、その分に相当する入金伝票は、私が破りすてるか、焼きすてるかして処分していました……私が何かの用事で万代西二丁目の院長の本宅に行った際、応接室で院長から収入金の一〇%から一五%を抜いて経理するように云われました」(同第四項)といって、梶岡が執務していた場所がずっと本院であるかの如く述べており第一審公判廷における梶岡証人の証言もこの点同旨である事実を指摘したのである。

(五) また、被告人は、原審において新たに、証明書(羽倉孝臣作成)及び添付の見積書及び図面各一通を提出した。この証拠と、原審における被告人本人の供述によれば、「最初梶岡は……万代西二丁目三五番地の母の自宅の離れになっている別棟に出勤し……その離れを事務所として出勤して来ることになった……当時阿倍野の本院に事務所はありませんでした。……本院に事務室が出来たのは……昭和四九年の一二月頃だった……それは本院の診療室と別棟の寄宿舎の一階部分を改造して事務室にした……このことは、前記羽倉作成の証明書や見積書(昭和四九年一〇月付)、添付図面によっても昭和四九年一二月末日までには本院の工事が終了していたとなっているが、被告人の記憶でも大体そのとおりだった…この本院に事務所を設けるまでは、万代西にある母の離れを使い……梶岡は生野の自宅からこの離れに出勤していた」ことは明らかになった(この点については、客観的証拠が主であり、これに依拠する供述を措信できないとすることは経験則違背として採証の法則違背となる。

しかるに、原判決は控訴審で指摘したこの重要な事実につき、なんら触れるところがない)。

(六) 被告人は、原審において、「博仁会(本院)の診療時間が法人になる前から昭和五〇年一二月まで午前九時より午后八時までであり、-その後は終業時間が午后七時となった (本院の写真)

被告人は当時午前八時二〇分頃に家を出て午后九時頃に帰宅し……その間本院……ほとんど休まずに……診療に当っており(休んだのは開業以来三日位しかない)、梶岡の勤務時間は……午前九時から午后五時半までであり同人はその勤務時間中は、(前記の)母の自宅の離れであり、……出勤してきたときには母のみがおり……母の指示に従って仕事をした……のであって……本院に事務所ができるまでは、被告人と顔を合わす筈はない」と述べる。

こうして、日常業務として、梶岡が出勤したころには既に小野博人は家にはおらず本院で診療をしており梶岡が勤務を終え前記事務所を出る頃には、被告人はなお診療中であるから、前記の本院に事務所ができる昭和四九年一二月までは被告人と梶岡は顔を合わすはずはないことが明らかになった――昭和四九年一二月までということは、本件公訴事実は、昭和四七年四月一日から同五〇年三月三一日までのことであるから、そのほとんどの間は前記の両者が顔を合わす筈はなかったということになる。

(七) なお、前記の(五)(六)の事実は、いずれも客観的証拠を主としたもので、被告答の供述はこれに基いて説明したものにすぎないのであるから、この供述を措信しないということは採証の法則に違背する違法的なものというべく、これをにわかに措信しがたい」とする原判決はこの点においても破棄されるべきでる。

(八) 右のとおり前記(五)の事実が明らかになると、本件において最も重要な証人である梶岡秀年の証言は、土台が崩れることになる。

即ち、原審判決がいう「原判決(第一審判決)が弁護人の主張に対する判断の一で認定した諸点」なるもののうち最も重要な直接的事実である「被告人小野博人においても松原分院における収入除外分の伝票や現金を梶岡秀年から受取っていたこと」が崩れるのである。何となれば、この点に関する梶岡の前記検察官調書や第一審公判廷における証言は、前記(四)で引用したとおり、「両分院の経理事務がすべて本院の経理事務と共に行っていた」ことを前提とし、「毎朝九時過に院長から、両分院の前日分の診療報酬として現金と入金伝票を手渡されるので、……その中から適宜一部を裏に廻していた」という事になるのであるから、この前提事実が崩れ去れば、右の「裏に廻していた」とか、前記(四)で引用したうち「(小野アイ)が留守のときは院長に見せて、裏に廻した金額を説明して伝票によって確認してもらい、裏に廻した現金を小野アイが院長に手渡し」という事実はあるはずがないことになる。また同じ引用個所で、「私が何かの用事で万代西二丁目の院長の本宅に行った際」とあることも事実と反することが明らかとなり(ここに勤めているのが日常であって、「何かの用事で」行く筈はない)、従って、これに続く「応接室で院長から収入金の一〇%から一五%を抜いて経理するように云われました」という部分も全く事実と違ったことになるのである。そうすると、前記の第一審判決の、「松原分院における収入除外分の伝票や現金を梶岡秀年から受取っていたこと」なる事実に、認定できるはずはない。

(九) なお、梶岡証言について附加する。前記の同人検察官調書のうちの重要な一つは、「売上除外」の指示をしたのが被告人であるということであったが、梶岡は、第一審公判廷においては、その点につき、その指示をしたのは被告人でなく小野アソである旨明言し、そのように供述が変ったことについて説明している。

この検察官調書のもとになったのが、前記同人に対する大蔵事務官の質問てん末首であるが、その作成日が昭和五一年一〇月一〇日であって、強制捜査の始まった一〇月一四日のことでなく、被告人が人時入院していた母に心配させないために罪をかぶろうと打合せがされていたことに基くものである(被告人原審第三回公判廷での供述)ということと併せ考えると(この点第一審判決も被告人が指示したことは認定していない)、そもそも梶岡の前記判廷での証言は、事実(前記指示をした者が小野アイであること)と、前の打合せのままの影響が減っている点(被告人に「売上除外分を渡したこと)とか混在していたと思われる。しかし、これは、前記のとおり客観的事実によって、被告人が「売上除外」の指示をすることができるはずがないことに帰した以上、梶岡証言も、この点前記検察官調書と同様事実に反するものとして扱われるべきである。

こうして、本件においては、被告人小野が小野アイと共謀した客観的事実は存しないことが明らかとなったのである。

(十) そうして、この点に関する被告人が捜査段階で自認した供述が問題になるのであるが、なぜ自認していたのかについては原審における同人の供述で明らかになっている。

即ち、「昭和五〇年八月三〇日に修正申告をした際全部洗いざらい出して修正申告をしたので刑事事件にはならないだろうが、入院中の母に心配をかけるわけにはいかぬから、被告人がかぶることにするという話だったが、一〇月一四日に突然国税局の査察が入り……本院、松原分院、母の入院先の病院、自宅等に午前九時に一斉に来て、母アイと被告人とが質問てん末書をとられた」(昭和五三年五月一一日公判での被告人の供述)。

「この時は、被告人と母とは別々に連絡がとれない状態で調べをうけたが……調べの途中で被告人の話と母の話が責任の点に関して合わない、母は自分が全責任をもってやったというし、……被告人は自分がやったというのでその点が合わんと云っていた……翌一五日に被告人と母、鎌田美穂子、梶岡秀年、石川郁夫が集まって、当時三八度の微熱が続いていた母に心配をかけるわけにはいかんということで被告人が責任をかぶる形にすることにした」というのである。

そこで、小野アイの、昭和五〇年一〇月一四日付質問てん末書をみると、裏預金については、小野アイが考えて決めたと述べており、前記被告人の証言と合致する。

このようにして、前記の客観的事実というものを正確に看取ることによって、本件の調書全体の事実の把握の仕方が根本的に変り、そうすると、被告人に共謀の事実がないと認められるはずであったのに原判決は、この重要な点に触れるところがない。(そして、この点の事実の把握の仕方の誤りは、次に述べる「共謀共犯理論」における「共謀」の考え方と結びついて、被告人に刑事責任ありと認めることになるのである)。この事実の誤認は重大であって原判決に影響を及ぼすべきことは明らかであり、原判決を破棄しなければ、著しく正義に反するものであって、上告理由の第一点とするものである。

二、原判決には共謀共同正犯に関する最高裁判例に違反する誤りがある(刑事訴訟法第四〇五条第二号)。

(一) 被告人は、本件の原審において、もともと起訴状に「小野アイと共謀のうえ」なる文言が存しなかったところ、審理の最終段階に至って、急拠訴因を変更して右文言が追加されたものであり、このことは「小野アイとの共謀」なるものを持ち出さなければ公判維持に支障を来す実状であったこと、その意味で本件における「共謀」の認定は極めて重要な意味を持つものであることを主張した。

(二) これに対し、原判決は「被告人小野博人は、収入除外ないし、法人税ほ脱税額の細部或は具体的金額についてまでは認識していなかったとしても、少くとも右の点の概括的な認識は有していたと認めるのが相当であり、……被告人小野博人は右小野アイと共謀のうえ、本件各犯行に及んだものと判断する」。

即ち、いわゆる共謀共同正犯論を採用し、「概括的認識」をもって共謀ととらえている。

憲法三一条、刑法六〇条の解釈、さらには共犯理論等をめぐって様々な議論の存するところである。

ここでは、右の憲法論等に言及するつもりはないが、判例上確立されたといわれる右理論に関しても、おのずから一定のしぼりがかけられるべきであることは学説上ほぼ一致して指摘されているところである。

共謀共同正犯に関する判例中、いわゆる練馬事件に対する最高裁昭和三三年五月二八日大法廷判決は、「共謀」の意義につき次のように判示している。

即ち、「共謀共同正犯が成立するためには、二人以上の者が、特定の犯罪を行うため、共同意思の下に一体となって互に他人の行為を利用し、各自の意思を実行に移すことを内容とする謀議をなし、よって犯罪を実行した事実が認められなければならない。

したがって、右のような関係において共謀に参加した事実が認められる以上、直接実行行為に関与しない者でも、他人の行為をいわば自己の手段として犯罪を行ったという意味において、その間刑責の成立に差異を生ずると解すべき理由はない」と。そして学説は右判例が「共謀者の正犯性の認定に相当程度の絞りをかける方向をとるものと思われる」との点から注目するに至った。

而して、右判例の趣旨からすれば、単に情をうち明けられ了承したとか、他人の犯罪遂行に単に加担するだけの意思をもって犯行の相談に加わった者については、共同正犯性を否定する方向を示すものと評されているところである。

従って、共謀者の意思内容としては少くとも、実行者に対して共同意思による心理的拘束を及ぼし、その結果自からの犯罪意思を実現しようとする意思、換言すれば右判決にいう「共同意思の下に一体となって互に他人の行為を利用し各自の意思を実行に移す」旨の意思を各関与者が有することが必要であると言うべきである。

そして、典型的には、役割の分担についての協議が為され、或いは、実行方法についての計画作成などが具体的に為されるなどした場合に、はじめて右の共謀なるものがあったと認定しうるものがあることが想起されるべきである。

(三) ところで、前記一において述べた「梶岡が勤めていた場所は阿倍野の本院ではなくて住吉区西万代の自宅の離れであった」という客観的事実から導かれた事実と原判決が認容したその余の事実を総合すると被告人小野博人には本件に関して具体的構成要件該当行為の認識が殆んど存せず、従って単に情をうち明けられて了承したとか単に他人の犯罪に加担するだけの意思をもって犯行の相談に加わったという事実すらなく、ましてや前記最高裁判決で判示された如き、或いは実行者に対して共同意思による心理的拘束を及ぼし、もって自からの犯罪意思を実現しようとする意思といったものは全くなく認められないのである。

こうして、原判決のいう「概括的認識」なるものは、「共同意思の下に一体となって互に他人の行為を利用し各自の意思を実行に移すことを内容とする謀議をなした」ことにはとうてい該らぬものであり、この点前記最高裁判例に違反する。

三、原判決は、刑の量定が不当である(刑事訴訟法第四一一条第二号)。

(一) 一審判決は、被告人小野博人に対し、懲役四月執行猶予二年の刑を科し、原判決のこれを維持した。

(二) しかし、原判決には、前記一で述べた如き情状に鑑みるとき不当に重いと言わざるを得ない。

(三) 修正申告と再修正申告との違いがほとんどないことについて

(1) 小野博人は、昭和五〇年八月二六日ごろ博仁会の取引銀行である三和銀行阿倍野橋支店に国税局の調査があったことを母小野アイから聞かされほ脱していることを知ったのであるが、直ちに同年八月末日修正申告をなした。

(2) そして、その後本件捜査の結果に基き昭和五一年四月一九日修正申告し、本税、同年六月三〇日加算税及び延滞税を納付した。

(3) ここで注目願いたいのは、この自発的な修正申告と再修正額との間に殆んど差がないことである。

(4) そして、その違いは、僅かに募集費の一部がそう認められず、これが交際費とされ法定の限度額を超過していると認められたため損金に算入されなかったことによるものにすぎない。

(四) 被告人は、「歯学博士の学位がもらえそうな」段階であるということ(原審昭和五三年五月一一日被告人尋問調書)である。もし、本件判決が確定すれば、「失権の問題が起り」(前同)被者人が開業後も土曜日の午后は大学に通い研さんに努めた甲斐もない状態に立至ることを特に斟酌されたい。

第二、被告人医療法人博仁会について

原判決には、量刑不当の誤りがある。

(刑事訴訟法第四一一条第二号)。

一、第一審判決は、被告人医療法人博仁会に対し、罰金三五〇万円を科し、原審はこれを維持した。

二、しかしながら、前記の事実に被告人小野博人について述べた修正申告と税金納付の状況等を併せ考えるとき、被告人法人に対する前記の刑は不当に重すぎると思料する。

以上

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